昭和50年度(1975年)プール竣工
本校のプールは開校から25年目に完成しました。『(完成の)前年まで三年生以上が(環七の)歩道橋をがやがやと渡って日立(亀有工場内の)プールに通った』ので『一年生も泳げる(プールができて)、本当に夢のようだった』と、第26回卒業の老子いづみ氏が創立30周年記念誌に感想を寄せています。
平成20年頃まではスタートの飛び込み指導をしていました。衝突事故を防ぐため、底には砂を敷き詰め、その上にビニールを張った構造で、歩くとまるで粘土を踏むような柔らかい感触だったそうです。
その後、2回の改修工事により、更に使いやすくなったプール。
今季の水泳指導は感染症対策のため中止ですが、来年は楽しみにしている子供たちが思い切り泳げるようにと願うばかりです。
写真は昭和50年7月祝賀プール開きの様子です。飛び込み台が写っています
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昭和41年(1966年)小鳥小屋設置
昭和41年鉄筋校舎の建設に併せて、中央昇降口右側に4つの施設が設置されました。
そのうち、観察池・岩石園・半円形花壇の3施設は、今も当時のままの状態で残っています。残りの1つは、20周年記念誌に掲載された写真を見ると大型の鳥小屋で、きっと多くの小鳥が飛び回っていたのでしょう。
その後、小鳥小屋の隣に飼育小屋が増設され、平成20年頃には、にわとり、チャボ、うさぎが各一羽ずつ飼われていました。子供たちは、動物の体のつくりや動きの違いなどを授業で観察したり、飼育委員が交代で世話するところを見て命の大切さについて学んだりしたと思います。
しかし、平成22~23年に大流行した鳥インフルエンザへの感染を危惧して学校での動物飼育が難しくなり、平成24年までに3羽の寿命が尽きると、もう鳥類・哺乳類を飼育することは無くなりました。そして平成27年の校庭人工芝化工事に併せて、動物の飼育施設は全て撤去されました。
過去にも感染症流行によって学校の学習環境が変わったことがある一例と言えるでしょう。
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昭和35年度(1960年)校歌制定
本校の校歌は、10周年の際に制定され、記念式典の中で披露されました。
作詞は古関吉雄。明治大学教授を務めた国文学者で、作曲家古関裕而(NHKのドラマ『エール』のモデル)の従兄弟だそうです。
作曲は福井直秋。明治初期の音楽教育に尽力し、武蔵野音楽大学の創立者・初代学長になった方です。
ネット検索などで調べたところ、大層立派な経歴のご両名が手掛けた作品であることがわかり、誇らしく感じました。この伝統ある校歌を、今後も大切に歌い継いでいきたいものです。
昭和30年代、音楽教育で中心的な楽器はハーモニカだったので、後方の子供たちはハーモニカで校歌を演奏しています。
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昭和35年度(1960年)校庭での卒業式
昨年2020年3月の第70回卒業式は感染症対策のため、校庭で実施されました。
参加者は卒業生38名とその保護者、教職員のみで、密を避けるため椅子の間隔を広く開けて座るという、例年とは様変わりしたものでした。
しかし、校庭での卒業式は過去にも例がありました。掲載の写真は、1960年第10回卒業式の様子です。卒業生365名、5年生と合わせて600名以上の児童が校庭にぎっしり座り、保護者は後方で立ったまま参列しています。写真には「北風の吹く時もあり寒くて大変だった」と書き添えられています。
1967年に体育館が建てられる以前は、校庭の他、壁を打ち抜きにした2教室を使用したり、近隣の日立亀有工場の施設を借りたりして行ったこともありました。式場設営や椅子などの物品運搬に、大変な苦労があったようです。
本校の卒業生は、1950年開校から今日までの70年間で通算7622名になりました。これほど大勢の子供たちが巣立った学び舎の伝統を受け継ぎ発展させるため、今後も本校に関わる全員の知恵と努力によって、様々な局面を乗り越えることを願わずにはいられません。
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昭和30年度(1955年)学校給食
本校では、昭和25年の開校当時から隔日で給食が提供されていました。
当時の献立は、毎回ほぼ同じ。
潰すと一握りになってしまうスカスカのコッペパン、独特の臭いがあり冷えるとますます強くなるので鼻をつまんで飲む子供もいた脱脂粉乳、大抵一品だけのおかずという粗末な物でした。
今ではあまり見かけない鯨肉がおかずによく出されたことも、商業捕鯨の規制が緩やかで、他の肉類よりも安価であった当時の社会事情を反映しています。
また、食器がアルミ製だったため、黒ずんでペコペコへこんでいたことも、料理がおいしそうに見えない一因だったのではないかと思います。
その食器は、昭和62年からは白く光沢のある硬質陶磁器製に変わり、献立には米飯や麺類などが導入されて内容も栄養価も豊かになりました。
写真は昭和30年度卒業アルバムに掲載された給食風景ですが、みんな素敵な笑顔で写っています。
いつの時代も、子供たちにとって給食はとても楽しい時間なのだと感じます。
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昭和25年度(1950年)臨海学園開始
本校では、開校当初から民間宿舎を利用して、千葉県の上総湊や岩井海岸で臨海学園を行っていました。
「はじめのうちは(参加する)子供が足りなくて(中略)3年くらいから希望を募っていた」という大久保新雄教諭(昭和25年~27年在職)の回想が、40周年記念誌に記載されています。
交通が不便で宿舎の確保も困難な中、大勢での宿泊行事をよく実施したものだと感服します。
それほど、海で泳いだり砂浜で遊んだりする自然体験を重視していたのでしょう。
1990年代後半に「足立区鋸南自然の家」が建設され、2000年から2009年までの間、5年生の鋸南自然教室は臨海学園でした。
その後、臨海学園は中止になり、現在は鋸山やマザー牧場・鴨川シーワールドに出かけるなど、自然に親しむ活動を行っています。
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昭和25年度(1950年)開校
開校当初の大谷田小学校は、20学級、児童数1,121名と記録されています。
第1回1年生として入学した本校第13代校長の話によると、クラスは児童数64名、1学年4クラス。木造2階建て校舎の前での記念写真です。1学年男子は詰襟の上着、女子はセーラーカラーの洋服姿が多く、お母さん方はほぼ皆さん和装であるところに昭和の風情を感じます。
人数が多くて教室に入りきれないため、2クラスずつが午前と午後に分かれて登校する二部制だったそうです。開校当時から、大勢の子供たちが仲良く過ごす学び舎だったことがしのばれます。
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