「TOKYO人権」という小冊子があります。そこに「普通ってなんだ」という特集記事が掲載されていました。今日は「マイノリティ(少数派)」ということから人権を考えてみたいと思います。
この特集記事には、自身が「アルビノ(※アルビニズム=白皮症:メラニン色素の減少や欠乏が原因で白い髪や肌を持つ人が多い)」であることで様々な経験をされた方のインタビューが掲載されていました。私が関心を持ったのは「アルビノ」そのものではなく、その方が語っていた「私が生きづらいとしたら、それは決して私のせいではない。社会に問題があるのだ、と気づいてからいくぶん楽になった」という言葉でした。「障害学」という分野には「(身体)障害者が経験する問題は、身体(に原因があるの)ではなく、障害者を排除する社会に原因がある」という考え方があるとのことでした。
「アルビノ」も医学的には治療すべき対象とされているそうなのですが、この方からすると「なぜ、このままでいてはいけないのですか?」と感じたようです。治療法の論文などを見るたびに、ありのままの存在を否定されているように感じてしまう。なるほど、と思いました。
珍しい、少数派、異質…。それが原因で差別をされたり偏見をもたれたりすることがあります。しかしそれが生まれもった性質であったり、努力では変えることのできないようなものであった場合、自分ではどうにもしようがないことで差別や偏見を受けることを、果たして本当に我慢しなければいけないのでしょうか。
私たちはつい「少数派」を理解することで差別や偏見をなくそうと考えてしまいますが、もしかしたら「理解しよう」というその思いこそが差別や偏見から生まれてきているような気がしました。そんなことを考えながら、先週、江戸川区の人権尊重教育推進校(小学校)研究発表に出かけてきました。するとそこで、まさにこの考えに触れることができました。
その話はまた明日。
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