鹿浜菜の花中学校

校長日記

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2021年1月22日(金)
神戸の友人

骨髄提供を終え、退院したのは1995年1月22日。阪神淡路大震災発生から約一週間が経過していました。
帰宅して真っ先にやったことがあります。それは神戸にいる親友に電話をすることでした。家に到着するとすぐに電話番号を調べ電話をかけました。しかしつながりません。その後、何度も電話をしましたが、なかなかつながりませんでした。
この友人と出会ったのは高校1年の時。同じクラス、同じバスケットボール部で、お互い苗字の最初に「大」がつきましたから座席も近く、すぐに仲良くなりました。もともと関西に住んでいたことがある彼は、高校卒業後に兵庫県にある教育大学に進学します。私も教員養成系の大学に進学し、そこでもお互いバスケットボールを続けていました。

縁というのは本当に不思議なものです。
互いに進学した大学は、他の教育大学数校とともに年に一度、バスケットボールの交流大会を開催していたのです。もちろん入学してしばらくの間、そんな縁があるとは知りませんでした。大学1年の秋頃でしょうか。その大学と同じ大会に出場すると知ったときには、驚きと嬉しさでいっぱいでした。
その後も年1回、大会で顔を合わせ、卒業後は年賀状のやりとり程度でしたが、互いの連絡先は交換していました。

なので、とにかく何度も連絡をしました。

震災から2週間ほど経ったころでしょうか。ようやく彼と電話がつながりました。生きていました。元気でした。本当に安心しました。しかし現地は大変な状況であることがわかりました。彼自身は被災を免れたものの、親戚の自宅マンションは住める状態ではないことを知りました。
「何かできることはないか…」
骨髄を採取した腰にはまだ鈍痛がありました。当面の間は激しい運動を禁じられていました。
「何の役にも立たないけれど…」
そう言うと彼は
「そんな状況でも来てくれるとありがたい…」
そう言ってくれました。

この後、震災から約1ヶ月後の2月11日、私はこの友人を訪ね、神戸に行っています。震災から1ヶ月後の被災地の様子については、またいつかお話しさせていただくことにましょう。
(このシリーズ終わり)